「人の渇きを満たす主イエス」  07.10.14
                    ヨハネ福音書 4:1〜15

 主は、サマリヤの町で出会った女性に「この水を飲む者はだれでも
また渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は、決して渇かない」
(14節)とおっしゃいます。そしてこの言葉は、私たちにも向けられて
います。
 人間はだれでも水を必要とします。水を飲んでも、いずれ渇き、
また水を必要とします。繰り返し渇きを満たすことが人には必要です。
それは主イエスも経験されていました(7節)。人が渇きを満たすものを
求めて生きるのは、水に限ったことではありません。この女性は、
5度の結婚をしながら、すべて破れてしまった女性でした。結婚に
おいて、さまざまな期待や希望があったに違いありません。
それらが一旦は満たされたかも しれませんが、また満たされなく
なっていました。この女性は「求め、一旦は満たされた。
 しかし、また渇く」ということを繰り返していました。このことは、水や
結婚だけのことではないでしょう。人は、さまざまな所で、そのような
ことを繰り返して生きているのでしょう。
 主イエスは、「渇かない水がある。わたしがそれを与えよう」と
おっしゃいます。主イエスは、この女性の問題は、生ける水の源なる
神さまとの関係が失われていることにあると見抜かれます。
 神さまとの関係を失うことによって、人間も、世界も潤いを失った、
枯れた状態になっていきます。人間は、生ける水の源なる神さまの
代わりに、様々な井戸を作ってきました(エレミヤ2:13)。
 しかし、それは「また渇く」ものでしかありませんでした。神さまが
お創りになった世界も人間も、神さまからの水を必要としています。
 主イエスは、その水を与えるとおっしゃるのです。
 それは、神さまとの関係を回復してくださるということです。
 主イエスは、十字架によってそれを実現されました。
 十字架上の主イエスから、血と水が流れ出たと記されている通りです
(ヨハネ19:34)。
 生ける水の源なる神さまに養われ生かされる関係は、もう
失われません。 私たちは、渇かない水を与えられました。